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世相

2024 夏

  • 2024年08月

世相日本世界感じるままに                                                                    榎本機工㈱ 社長 榎本良夫

 

「未来を予測する、読書」

業界紙、日刊工業新聞で、「未来予見する力を養う」という記事に目が止まった。

1982年、ニューヨークマンハッタン、崩壊したワールドトレードセンター近くの8000平米の土地を麦畑にした人が居たという事だ。ビル街に広がる麦畑は人々に大きな衝撃を与えたらしい。この人は人間の競争心、貪欲さ、近視眼的な考え方など、環境問題の根本にある人間の本質を洞察し、いずれそれらが(悪い意味で)現実化するであろう事を予見した、としている。1982年というと昭和57年、日本ではバブル経済の狂騒が始まる5年ほど前になる。

現在目の前にある事実は実に残酷だ。ウクライナやパレスチナ。人が為せる部分があるという地球環境の変動と異常気象。過酷なビジネス競争に敗退した会社やボロボロになってしまった社員達。実際に誰もが否応なくそれに巻き込まれてしまっているのだが、高所に立ってそれを見つめる余裕も無いし、その力も無い。沢山の読書により視野を広げて現実を高所大所から見つめることが必要なのだけれど、視野が狭いので、環境問題の根底にある人の本質などあらためて見つめる余裕も洞察力も無い。だから現実的に悲惨な事実が沢山出現している。

この記事を見ていて、何か弊社のやっている事と少し共通しているところがあるのでは無いかとふと思った。時代の主流であるアウトソースは弊社はやらない主義だ。自分で自分の技を磨いてその裁量の中で「楽しみながら」お客様と共に、新しい機械装置を製造して行くというスタンスを持っている。

自前主義で時代に逆行している。ただ今の時代では、と付け加えたい。未来は見る事ができないが、個人的にはこのやり方が勝る時が来ると思うのだ。日本は欧米流を何もまねする必要は無い。日本は日本独自のやり方でも良いはずだ。その根底に流れるのは「ものづくり技術」だ。これを失った時日本は消失する。

 

「敦煌」

日本では「とんこう」と読むが、中国では「トンファン」である。井上靖の同名の小説や、平山郁夫のシルクロード絵画でも有名だ。遠くヨーロッパに繋がるシルクロードへの入り口の街で、シルクロードの通過点である玉門関や陽関はこの街の西方のすぐ近くにある。町中からは遠く迫り来る巨大な砂漠が見え、

1.敦煌の街から見える砂漠

シルクロードはそこから先なのだなと実際に体感できる。

莫高窟(ばっこうくつ、中国語ではモーガオグ)

2.莫高窟    3.莫高窟

は川岸の崖に穴を穿って仏教画や仏像を安置したそれら多数の集積の世界文化遺産で、仏教の遺跡である。中央の最も大きな洞窟には奈良の大仏の2倍以上の高さの仏像があるが、崖を大まかに彫刻した上に粘土を塗って仕上げをし、その上から彩色するという比較的簡単な手法で、奈良の大仏が青銅の鋳造製であるのとは内容が違う。

インド、オーランガバードの近くにある、アジャンタの石窟は仏教遺跡で、

4.アジャンタ石窟

まったく同じ繋累であるが、もちろんアジャンタの方が時代的に先になる。お釈迦様はインドのルンビニで生誕し、ブッダガヤで悟りを開き、仏教をインドに広く広め、クシナガラで亡くなった。そのインド仏教を学びに、唐の都長安(今の西安)を出発した玄奘三蔵は、この敦煌からシルクロードに入り、タクマラカン砂漠を越えインドに達して仏教を学んだ後、また敦煌を通過して長安の都に戻ってきた。

インドでは衆生平等の仏教の教えが、上下階級のある当時の為政者達の現実とはかみ合わず、次第にヒンズー教に移って今日に至り、仏教は衰退した。事実アジャンタの石窟は人々から忘れ去られ、森の藪の中に埋没し、およそ1200年もの間人の目に触れる事は無かったが、1819年にたまたま狩猟に来たイギリス人が虎に追われて廃墟となった石窟が発見される。

 中国に渡った仏教は唐の時代にその最盛期を迎えたが、唐の時代が終わると二度と栄える事は無かった。都の長安(西安)は度重なる戦火により多くの文化遺産は消失してしまったが、敦煌にはその仏教遺産が多く残っている。

長安で最盛期を迎えた仏教を学びに、遠く日本から遣唐使の一員として、高野山を開いた空海や、比叡山を開いた最澄が留学し、日本に新しい密教仏教を広めて行く事になる。今なら飛行機で西安まで上海を経由してひとっ飛びだけれど、当時は五島列島から危険をとして一挙に海を渡り、浙江省の海岸になんとかたどり着いた。後は陸路長安を目指したのである。

インドで生まれた仏教は中国を経て日本にもたらされ、時代の変遷の中でもその命脈は今に至っても続いている。仏教文化はこの孤島が伝道の最終地となった日本に、今も最も色濃く残っているのである。

 8月、一度行ってみたいと思っていた敦煌を訪問する事ができた。恐ろしく多数の中国人観光客に押されながら莫高窟などを見学したが、外国人観光客は日本人も含めてほぼゼロに近かった。

しかし陽関ののろし台や、玉門関

5.陽関   6.玉門関

の近くで遠く砂漠の向こうに雪をいただく山脈を見たとき、時の悠久の流れを十分に感じる事ができた。そのシルクロードで人々は文化の交流と貿易をしたのである。ラクダに乗って。

 

「インド、アンバサダーCar

 8月、何年かぶりにコルカタ(カルカッタ)に商談で出向いた。インドの国民車と言われたヒンドスタンモータース社製の乗用車「アンバサダー」

7.アンバサダーCar

がほとんど無い事に気がついた。デリーではかなり以前からとっくに見かける事も無くなったアンバサダーも、ヒンドスタンモーター社があるお膝元のコルカタではついコロナ禍前までは結構走っていた。そのヒンドスタンモーター社は消失し、クラッシックカーそのものであったアンバサダーも徐々にスクラップになって行ったと言う事だ。60年前、スズキがインドに出る頃はインドを走るほとんどがアンバサダーだったが、当時の社会主義体制だったが故、ついに大幅なモデルチェンジをする事もなく(この車しか無かったのでこれを買うしか無く、モデルチェンジも必要が無かった)、最後を終えたという事になる。インドを象徴する一つが時代の波にのまれて消えて行った。

 

「食べ残し

欧米の観光客からすると、日本は不思議な国で、未来を見る様だと感じる人も居るらしい。まったく異なった文化でもあるし、極東の孤島で永い間独自独特の文化を育んで来たのだからそれもそうかも知れないが、日本人にはあまり自覚する事はできない。

 食べ残しを嫌うという性格は大きな美徳だと思う。私の子供の頃まではあったが、食時のあとお茶は湯飲みを使わずにご飯茶碗に注がれて、茶碗にこびりついたご飯のデンプン質をお茶と共に綺麗にお腹に収めたものだ。2002年製作の映画「たそがれ清兵衛」では真田広之演じる主人公の清兵衛が、朝のおかゆを食べたあとにお湯を注ぎ、一切れ残した沢庵付けで茶碗の内側を綺麗に洗ったあと、そのお湯を全部飲んでしまうシーンがあった。お腹に全部収めて栄養にし、一切ごみを出さないという江戸時代特有のゴミ無し、リサイクル文化を垣間見る事ができる。

 インドのレストランのビュッフェ。客が帰ったあとのテーブルの皿にはたくさんの食べ残しが残る。ビュッフェだから取ってこなければ良いのにと思う。道路上の路上生活者には食べる物も無いのに。

 中国の空港近くのホテルの朝食。これから勤務に向かう若いCA達はビュッフェでお皿に山盛りに料理を取って来て、一口、二口食べただけで退出する。それを横で見ていた老人が何ともったいない事と、ため息をつく。文化大革命の時には2千万人近くの人が餓死したと言うのに。日々食べる物がまったく無くなって死んだのだ。

 

「ドイツ

 年初にドイツ、オーストリアとポーランドに商談で出かけた。

何かドイツがボロボロになって来ている様な気がしてならない。同業のドイツ大手プレスメーカーは数年前にオーナーがオーストリアの企業に会社を売却してしまった。ここ数年で、元々あったドイツ国内の各地の工場の操業を停止し、ある工場は更地にして売却している。元東ドイツの系列工場は東であるが故に労働者単価が多少安く、週の勤務時間制限も西に比べると緩かったのでここに集約した。ところがここも整理する予定らしい。ドイツのプレスメーカーはここ数十年の間に買収を繰り返していて、老舗メーカーのブランドの名前だけがかろうじて残っているところもある。

乞食物乞いが町中でやけに目立つのである。明らかに移民であると見えるのも居ればドイツ人だなと見えるのも居る。日本にもホームレスはいるが、ここまで露骨に物乞いをする人たちは居ない。ドイツは大丈夫なのだろうか。

 

「トランプとバイデン」

 「前門の虎・後門の狼」と言う。トランプにとって前門のバイデンが消えたと思ったら後門からハリスという思わぬ予期せぬ敵が出現したというところだろうか。トランプにとってのバイデンは、老齢という理由からたやすい餌食となり得たのだろうが、事前に始末ができてしまった事により、後門から若い女性のハリスというバイデンより厄介になりそうな大統領候補が出てきてしまった。流れが予期せぬ方向に向かい始めたのは間違いないかも知れない。

 

「服部金太郎」

 私の叔父に榎本金太郎と言う方がいた。私の父のすぐ上の兄で、次男であった。故あって、遠縁の奥山家養子となったが、実際には榎本の家にずっと居た様だ。バイオリンを習っていたとかでその写真が残っている。戦後いくばくも無く結婚する事無く突然に病死してしまった。

榎本金太郎と言う名は祖父がつけたのだが、当人はえらく不満だったと父が言っていたが、名前の由来は服部金太郎である。祖父が尊敬していたという事だ。尊敬するは良いにしても金太郎では叔父当人もえらい迷惑だったろう。

 服部金太郎、現在のセイコー時計の創業者である。当初修理をなりわいとする服部時計店と名乗りその後自社製の時計を作るに至り、製造する会社を精工舎と命名した。服部時計店は知らずと知れた銀座に今も残り、精工舎の工場も都内にあった。当初は柱時計からスタートし、その製造技術を名古屋のメーカーから習ったと言うが、その会社はもしかしたら弊社とご縁のあるO精機さんかも知れない。その後懐中時計、腕時計の製造に発展させる。SEIKOのブランド名は精工舎が由来している。

腕時計の外側は当初から鍛造でやっていたのでは無いかと思うが(現在ほぼ全量が鍛造)精工舎は外注していた。創業110年にまもなくなる弊社のスクリュープレスは創業時は金ボタンやメダル、装身具の冷間鍛造に使われていたが、その業種がその後腕時計ケースの鍛造をする様になり、おそらく精工舎の腕時計ケースも弊社の手動式フリクションンスクリュープレスで多数鍛造されていたのでは無いかと想像している。弊社は九段下で創業しているから、場所からもそうであったと思う。戦災ですべて焼失してしまったので記録は残っておらず、推測である。

 新橋・横浜間の鉄道開通を目の当たりに見聞した服部金太郎は、その運行を眺めながら、時刻を正確に知る必要性が必ず出るだろうと時計を作る事に自身の生涯を決めたという。時計の修理技術を習得し、独立して行くが、観察力、視野を広く広げ将来のビジネスチャンスにつなげるスタンスは現在にも通じる。火事で一回ご破算に、さらに関東大震災でまたご破算と何度も災難にあうが、それをチャンスととらえ再起を図ると、これも今に通じる。

修理であずかったお客様の懐中時計をもらい火ですべて消失してしまっても、新品を代わりに提供して保証する信用商売、これも今に通じる。その人格が議員にも推薦されることになるが、祖父が服部金太郎を尊敬していたのも理解できる。しかし残念ながら祖父は小学校にも行けず働きに出されたので字さえ書く事ができず、弊社の企業規模は現在の様なスケールで終始することになる。これは多分将来も変わらないだろうが、小さいが故の楽しさもある。

 

「インド、シチズン時計」

 服部金太郎を書いたついでに、シチズン時計も書いておきたい。シチズン時計も東京で、弊社も縁が深いお客様だ。

インドにおける鈴木自動車は多く語られているが、シチズン時計はまったく語られていない。鈴木自動車がマルチウドヨグ社と合弁を組みインド進出をスタートした1960年、それよりも前にシチズン時計はインドに進出しているのである。1956年である。時のインド・ネルー政権は、インド国産の腕時計をどうしても作りたいと言う希望で、それに対してシチズン時計が製造技術から設備まですべての技術をインド国営企業HMT社に提供した。

8.左HMT, 右TITAN watch

リューズ巻き、すべて歯車駆動の腕時計で、芥子粒ほどの歯車からゼンマイ、時計ケースなどすべての腕時計構成部品をゼロから製造立ち上げした。当時ステンレスや真鍮の時計ケースは多く弊社のフリクションンスクリュープレスで鍛造されていたので、時計ケース製造部には弊社のプレスも多数帯同される事になった。これが、弊社がインドとお付き合いするそもそものきっかけとなるのであるが、60年以上前の事である。

インド政府は推測だが恐らくスイスの時計メーカーや、セイコーにも声をかけたのだと思うが、大変なリスクを覚悟でシチズン時計が引き受ける事になった。

時のネルー首相が、時間にルーズなインド人に安価な国産腕時計を持たせたいとの思惑があったのかも知れないが、推測である。

弊社が輸出した当時のプレスがいまだ健在で稼働している事実は、喜んで良いのかどうかはなはだ複雑な感がある。その後腕時計メーカーとして参入したTATAグループのタイタンウオッチも多くのケースが弊社のプレスで鍛造されて居る。

 

「パリ オリンピック」

 パリも夏場は暑いが、湿度が低いので日陰ではそれでも過ごしやすかったはずだが、スポーツの戦いは手に汗を握りながらとてつもなく暑い。4年間(今回は前回の東京大会がコロナで1年後にずれたので3年間)正月の休みも無く練習に明け暮れていた選手達の感動を呼ぶ競技。私にはとうてい真似出来ないので立派としか言いようが無い。そもそも私個人的には365日、3年も4年も練習を継続する事など出来無い。人生のすべてと、お金もかけているはずだ。

勝っても負けても立派だ。オリンピックのアスリート達には拍手を送る以外は何も無い。

 

 2024年も半分が過ぎ、後半に入りました。毎月の様にインドに業務出張で出かけ、インドからも多数のお客様が来日されている中で、個人的には近い将来圧倒的にインドが国際社会の経済を握って行くのは間違い無いと思うのですが、そのインド企業が日本と深いパートナーシップを持つ事を望んでいる。日本も決して悪い状況では無く、まだまだ将来有望な部分は沢山ある。インドとタッグを組むのは決して悪くは無いと思う昨今です。

今年後半の貴社の御健闘をお祈りします。

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