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世相

2023 正月

  • 2023年01月

世相日本世界感じるままに                              榎本機工㈱ 社長 榎本良夫

 

「ジャカルタ」

 2022年11月28日、心配することもなく、スカルノハッタ国際空港の税関検査を通過して外に出た。インドネシア特有のたばこのにおいが漂い、到着を実感する。ちなみにインドネシア人に言わせると、日本到着時の臭いは木材の臭いだと言う。韓国は紛れもなくニンニクの臭いだ。

ほぼ3年振りの海外出張再開第1号はインドネシアのManufacturing Indonesia 2022出展のアテンドとなった。

めんどうでは無いかと懸念した検疫はするりと通過し、APECカードを保持しているので入国もビザ無しで通過。税関申告書がQRコード読み取りの記入に変わっただけだった。ほとんどの人がマスクこそしているが(もっともバイクや3輪タクシーでは排気ガス公害の為にもともと必須だった)コロナの影響は感じられない。ホテルの朝食のビュッフェも日本の様にビニール手袋着用では無い。喧噪も車の渋滞も3年前と変わらない。

インドネシアは首都をジャワ島のジャカルタから、1200kmの距離にあるカリマンタン島東部の新首都名ヌサンタラ(スラウェシ島のほぼ対岸)に移転することを決定している。ジャカルタの地盤沈下と度重なる水害、過度の人口集中、インフラの未整備がその理由で、ジャワ島にはインドネシア全人口約2億7千万人の54%にあたる1億5千万人の人が住み、ジャカルタは1千万人を超える。ジャワ島で頻発する地震も、高層ビルが建ち並ぶジャカルタでは危険そのもので、    

1. ジャカルタの高層ビル 

カリマンタンではそのリスクも少ないという事だ。日本ではカリマンタンよりもボルネオ島と言った方が判りやすいかも知れないが、この大きな島はインドネシアとマレーシアが東西に分かれて保有し、ブルネイもここにある。2024年から政府機関から徐々に移転する予定らしい。もう手の付けようの無いジャカルタから一気呵成に遷都と言うのも良い選択かも知れない。しかしおそらく時間がかかるだろう。

 

「Manufacturing Indonesia 2022

昨年の11月末から12月にかけての4日間、2019年以来3年振りでジャカルタ・Kemayoranの会場で開催された。

2. Manufacturing Indonesia

ざっと見て出展面積は前回の3割、日本からはジェトロブースと東京都の出展者ブース。弊社は前回に引き続き単独出展で、5年ほど前までのおなじみの小間位置にまた戻された。韓国・台湾・シンガポール・ドイツなどがナショナルブースを設営したが、中国は無かった。もちろんインドネシア商社は中国製機械を多数扱っているので、中国製機械自体はそこここに展示はされていた。中国が抜けた穴を埋めたのがインドであった。前回から比較するとびっくりするほどのインド企業の出展で、ブースは一箇所にはまとめられなかったものの、あちこちにインドブースが設営された。旧知のビジネスフレンドも起業して出展していてびっくりした。

3.インドのビジネスフレンド

インドのプレス機械メーカーさえも出ていたのだが、インドの機械装置や工業製品をインドネシアで広く販売しようとする取り組みが強く感じられた。弊社プレスに関わるインド企業からの商談もあって、2023年の1月には訪問する予定である。

総じて面積が縮小された分訪問客が集中した感が有り、けっこうそこそこの商談もインドネシア企業と展開する事が出来た。

 

「ウーリン製SUV車」

2017からジャカルタの東にあるGIIC工業団地の工場で量産されているはずで、かなり走っているのかと想像していたがジャカルタ市内ではほとんど見かけなかった。

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五菱をウーリンと読み、上海通用五菱汽車 SAIC-GM-Wuling Automobile略称SGMWである。GM(General Motors)、上海汽車(SAIC)と五菱集団(現在広西汽車集団)3社の合弁で設立されている。インドネシアでもウーリンと呼ばれている様だ。ちなみに展示会出展で手伝ってくれた弊社研修生OBはウーリンが中国だとは知らなかった。

ジャカルタ市内では日本ブランド車が圧倒的多数(というかほとんど)を占めている。

GIIC(Greenland International Industrial Center)工業団地は山手線内側に相当する3200ヘクタールの面積で日本の双日が開発している。弊社のお客様も2社が工場を持っており、弊社のプレスも稼働している。スズキの工場もここにある。

 

「インドからの使節団来日」

コロナ禍で2020年開催が中止となり、4年ぶりに東京ビッグサイトで開催された「日本工作機械見本市 略称JIMTOF」の直後に、ACMA(Automotive Component Manufacturers Association of India)の使節団が来日して六本木虎ノ門ヒルズで投資セミナーを開催した。日本の部品メーカーに対し、インド企業との合弁などでもっとインドに来てほしいという投資促進ミッションだ。ACMAは「アクマ」と呼び、悪魔を連想してあまり語呂が良くないが、現在会員企業は850社以上で、会員企業の総売り上げはインド国内の自動車部品売り上げの85%を占めるまでに至っている様だ。すでに日本の自動車部品生産企業は300社ほどがインドで合弁などにより事業展開しており、これをもっと増やしたいという。ラブコールを送っているインド企業も約30社参加し商談ブースを設営した。弊社のプレスをお使いの会社も数社来ていたのだが、何しろびっくりしたのはACMAのPresident Mr. Kapur

5. ACMA SONA Mr. Kapur

はインドの部品メーカーSONA COMSTER社の会長で、25年前、前身のSONA OKEGAWA社設立稼働時に弊社の鍛造プレス4台を設置し歯車の製造を開始した会社である。当時の社長は父親で3年前に他界したが、息子さんには25年前に確か当時の合弁先であった三菱マテリアル桶川工場でお会いしていたのである。そんな事はすっかり忘れていたはずだが、私が名刺を差し出すとすぐお判りになられた。SONA社の工場にはずらりと弊社のプレスが並んでおり、毎年の様にラインを増やしておられる。30年ほど前の創業時には日本の光洋精工(現在のJTEKT)と合弁を結びSONA KOYOという会社であったが、数年前に合弁は解消し独自の道を歩んでいる。SONA OKEGAW工場のオープニングセレモニーにも呼ばれてわざわざインドまで出向いたが、社長であった父親の挨拶の中で「人の移動を快適に行なう為にインドでは自動車をもっと生産しなければならない」と言っておられた事が記憶に強く残っている。当時のインドでの移動はまったく快適では無かった。

ACMAのミッションに続いてCII(Confederation of Indian Industry, インド工業連盟)の使節団も来日し、九段のインド大使館で講演会を開催した。これも日本からの投資促進が目的である。

 

「コロナ後初の立会検査来日」

弊社のプレスの製造の半数以上は輸出で、インド向けが突出している。2020年以降出荷前の機械の検分(立会検査)は全てWEBで実施し、中国に出した複雑な全自動装置2セットも技術社員の派遣はせずに、すべてWEBで組立試運転を実施した。

2022年9月、インドのジャムシェドプール(コルカタから列車で3時間ほど、TATA STEELのある町)にあるRamkrishna Forging社から3名の検査員が来日した。

 

6.ramkrishnaforgings 立会検査

コロナ禍後の来日再開1号である。この会社との商談は25年程かかった。何度も足を運び、やっと1台発注をいただいた。25年前、当時の社長様の孫娘の4歳くらいだったかの誕生パーティーにも呼ばれ、その時の写真も残っているが、その写真に一緒に写っている孫の男の子は現在同社の経営陣の一人で、来日した検査員もその写真を見て目を丸くしていた。

弊社の仕事は種まきから刈り取りまでこの様に長期間かかるケースが多いが、一つ決まるとあとはリピートが連綿と続く。

60年以上前に輸出したプレスがまだ現役で稼働しているのだから、何とも気の長い話しだ。

 

「夜汽車」

夜汽車に揺られて遠くに行きたい、なんて言うフレーズがはいった歌が30年も前にあった記憶があるが、今の大学生が「夜汽車」が判らない事が最近わかった。現在そもそもそんな列車が存在しないのだから無理も無いだろう。寝台列車では無く、ただ夜走る列車だが、本当の煙をはく汽車だったのは多分50年以上も前の話だろう。東北地方からの集団就職の生徒が上野駅に到着する、その頃だろう。それも夜汽車だったはずだ。夜中に鳴るピーと言う汽笛は遠く故郷を後にして中学を卒業したばかりの子供達には寂しい以外の何物でも無かっただろう。

高度成長期、多分「ディスカバージャパン」というキャンペーンの頃だったのではないかと思うが、夜汽車に揺られてちょっと遠くに旅にでも出ようというペーソスに満ちた歌だったが、本当はリグライニングでは無い座席での夜行列車は熟睡する事もままならず夜汽車ほどきついものは無かったのである。

 

「ウクライナ・ロシア戦争」

ロシアの弊社業務サポーターMr.Victorからの新年のメッセージの中に、Victoryの単語があった。商売上であれば、Successを使うべきなので、戦争を念頭にVictoryを使ったと思われ暗澹とした気持ちになった。彼の名前自体も申し訳無いが、現状では語呂が悪い。

30年前にベルリンの壁が壊されて東西冷戦が終わった時の世の中の変わり目は、これから良くなって行くという大きな明るい希望に満ちていた。昨年始まったロシアのウクライナへの侵攻はそれがまた元に戻って行くという暗い変わり目である様だ。

80年前の日本も今のロシアに似たり寄ったりだったのではあるが、第二次世界大戦終了時には無条件降伏したので、体制をすべて変える事を受け入れる事になり今の日本がある。

今回、ロシアがウクライナに無条件降伏する事はあり得ないので、ロシアの体制は変える事が出来ない。NATOがロシアの無条件降伏を念頭に参戦する事もあり得ない。地球が終わる。ロシアの中から変わる事はあるかも知れないが、今後数十年間多くの国はロシアと距離を置くだろう。暴走する独裁者を生む素地を持つ体制国家は危険視されて行くはずだ。

日本は「ものづくり」に傾注して行くべきだろう。「もの」さえあれば何とかなる。つまるところ「食べるもの」である。食べる物は我々がかかわる工業力が無いと出来ないのが現実である。マスクが無いとか半導体が無いだとかこのコロナ禍で「もの」を軽視して居た事が痛いほど判ったはずだ。こんな小さな極東の島国でものづくりが発達したのは、長い間の寺子屋を代表とする広い教育システムが人を育てた事に起因していることは論理の余地も無いであろう。からくり人形師、9代目玉屋庄兵衛さんの講演会が昨年「ものづくり大学」の主催であった。日本にあまたある木材の木々の特質をつかんで使い分け、金属を使用しないで製作されたからくり人形はものづくりの真骨頂で、

 

7.からくり人形

それが名古屋あたりに沢山ある山車(だし)からくり人形にまだ伝承されているという事、その延長線上で車の部品製造工場での工程器具のアイデアにも展開されているという事だった。日本のすばらしいものづくり技術は、若い技術者を育てて伝承して行かなければならない。

本年も皆様のご健闘をお祈りします。

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