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世相

平成25年 夏

  • 2013年08月

「冒頭に。感謝」
インターネット網の拡充に心から感謝を表したい。この原稿を各国で書くにあたっても、欲しい資料はあまねく即座に入手出来、仕事の先送りが無い。ワールドワイドウエブ(WWW)の文字通り世界中に張り巡らされたネット網は、日本に居ても、辺鄙なインドの田舎でも、地球の反対側のブラジルでも即座に通信を繋げる事が出来る。ここ数十年の過去から比較すると隔世の感がある。まだ十分には使いこなしては居ないのであろうが、至便の道具に再度心から感謝する。(メキシコで原稿を終えるにあたり)

「ミャンマー展示会」
2013年はミャンマーの展示会出展で始まった。 ヤンゴン・バンコック間は片道一日12便のフライトがあり、直行便の無いヨーロッパからのビジネス客が頻繁に利用する。長い間中断していた日本からの直行便も再開され、韓国仁川からの直行便も開設されている。もちろんシンガポール、クアラルンプールやベトナムハノイなどの東南アジア諸国からも直行便がある。
MMT Yangon 2013, (M:Myammar M:Manufacuturing, T:Technology) ミャンマーでははじめての製造機器や部品と技術の総合展で、1月16日から18日の会期3日、ヤンゴン唯一のTatmadaw展示会場(3000㎡)で開催された)。

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シンガポールの展示会業者が主催し、シンガポール、日本、韓国、インド、中国、台湾などの企業が出展した。日本からはクボタやヤンマーなど農業機械の会社がタイ、シンガポールの現地法人から出展していたのが大きく目立った。農業機械・建設・エネルギー・食品機械などに大きく主点がおかれたのは現在の国情からもっともな事だが、弊社もミャンマーで始めて出展した。

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(株)事業革新パートナーズがジャパンブースを設営した。1994年にハノイで開催された日本産業見本市と同等規模で似た様な設営であるとの感触を持った。当時ベトナムもドイモイ政策に弾みがかかり、海外からの投資が大きく注目されていた時期である。それが弊社の海外展示会初参加でもあった。私自身が右も左もわからないままに積極的に展示に参加したものだが、弊社もこの20年の間にすっかり国際企業になってしまった。 入場者は招待客のみ約五千人、行列もなく、ひたすらのんびりと、ここはベトナムとは大違い。
気の毒な事だが、ナショナルブースの「台湾」という表記は検閲で認められず、その他に入れられてしまった。「台湾」と記載を入れた出展者リストは刷り直しになり、配布されたのは最終日であった。中国の影響がかなり絶大であるという事の証左だ。
会期途中で築水キャニコム社の農業運搬車の展示物が売れたという事で、買主が手付金を現地通貨チャットのキャッシュの札束で持参した。スーパーのレジ袋一杯の量だが、地元ミャンマーの人でさえも幾ら相当だか良くわからないと言う事だった。日本の万札でレジ袋一杯だと億は超えるはずだが、仮にミャンマーで一番流通している5千チャットが5千枚入っていたとすると2,500万チャット、つまり300万円相当だろう。あくまで推測だ。 車輌は会期後通関されて買主の手に渡るのであろうが、後の残額の回収が大丈夫なのかと、人事ながら心配になったものだ。展示会処分販売で一番問題となるのは何と言っても代金の回収なのである。
弊社のサポートはつてを頼って日本滞在経験のある、ソンさんに総て御願いした。NEDOのお手伝いもしている印刷工場の経営者である。子供3人はインターナショナルスクールに通わせているという事なので裕福であるには間違いない。 初日のオープニングセレモニーの後、弊社小間には電力工業省の大臣がお見えになった。

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同じく初日の会期後、盛大なる歓迎パーティーが場所を移したホテルの広場で開催された。

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実はミャンマーは、というと1998年7月に日本鍛圧機械工業会・若手経営者委員会有志11人が市場調査と題して調査団を派遣した事があり、僭越無謀にも第二工業省(当時)でのミーティングまで設定し、遠くシンディ(クボタの技術協力先工場があった)、トンボ(同じくマツダ)、ピー(これら地方の中心地)まで足を伸ばした経緯がある。15年前の話である。当時は第二工業省の許可が無いと一切の国営工場の見学は出来なかった。 ヤンゴン市内の日野が技術を提供したトラック工場や、松下の電気釜・ラジオ・電球などの工場も見学した。全部日本の戦後賠償の提供先である。これらの工場はほとんど同じ状況でまだ存続しているはずである。少なく共トラック工場はまだ製造をしている。 この調査団を企画した張本人が私なのであるが、その後の軍政の方針により商売としては大きな展開は無かった。2011年テイン・セイン氏が大統領に就任後政治情勢が大きく変わり各国の経済制裁が溶けるにつれ、経済発展に火が付いたと言っても過言では無いだろう。 ヤンゴン市内から約30kmのティラワ工業団のインフラ整備を日本政府が請け負った。総面積7000ヘクタールで、一次生産を中断しているスズキはここで2015年に生産を再開するとの事である。インダーコーの工業団地には日産が用地を取得したという事である。自動車は当面ノックダウンの組立方式でスタートするのではあろうが、ミャンマー政府はローカルコンテンツの%を高く設定するという事だ。ノックダウンの部品が陸路中国や隣のタイから入ってくるのではかなわないという事だろう。ミャンマーとタイはそれでなくても昔から仲が悪い。従って2輪や自動車の部品産業も2015年がある意味でミャンマーでの製造検討出発年と見て良いのでは無いだろうかと思っている。
ミャンマーは南北に長く延びる国土を有し、中国・タイ・ラオス・インド・バングラデシュと国境を接している。エーヤワディー川(旧称イラワジ川)が北の山岳地から南の海岸までを大きく縦断しており、河口に位置する旧首都ヤンゴン周辺は広大なデルタ地帯を形成し、有数な米の産地でもある。国土面積 約68万㎡で日本の約1.8倍。人口は6500万人と推定される。首都は内陸部にあるネーピードーで。2006年10月にヤンゴンより突然と言って良い程急に遷都された。
元首はテイン・セイン大統領(2011年3月就任、任期5年)政体 は大統領制、共和制ではあるが、強権で知られるタン・シュエ前大統領からの軍事独裁政権色がまだ色濃く残っている。
民族構成としてはビルマ族約70%、シャン族8.5%、カレン族6.2%、ラカイン族4%、華人3.6%、モン族2%、インド人2%などで、国内には135の民族が居住しているものと見られる。現政権に反発するシャン族との軋轢は激しい。 国民の85%が仏教徒(多くがタイと同じ南方上座部仏教)、キリスト教徒4.9%(特に山岳地帯の少数民族には、20世紀初頭に入り込んだ宣教師によってキリスト教が広められた)。そのほかイスラム教4%、ヒンドゥー教など。 ミャンマー(ビルマ)は、旧宗主国であるイギリスからの制度である左側通行を、1970年に右側通行に変更した。ミャンマーの場合、国境線は右側通行国(中国・ラオス)と左側通行国(タイ、インド、バングラデシュ)両方と接しているが、左側通行とのほうが遙かに距離が長く、右側通行に変更するメリットは少ない。変更の理由は、指導部がイギリス式を嫌ったためとも占い師による助言を受け入れたためともされている。何しろ理由が良くわからないまま通行帯が突如変更された。
赤地に左上が青の古いビルマ・ミャンマー国旗は2010年10月21日にこれまた突然変更され、即日使用を開始し、翌日には古い国旗は焼却する様命令された。新しい国旗は、上から黄色、緑、赤に塗られた三色旗の上に、大きな白星が描かれている。この三色旗は日本が第二次世界大戦中に建国したビルマ国の国旗と同じ配色だが、ビルマ国は国旗の中心に白星ではなく、コンバウン朝の印章だった緑色の孔雀をデザインしていた。
ミャンマーの歴史は、ビルマ族、シャン族、モン族の王朝が勃興しては滅亡する繰り返しであり、モンゴルの侵攻も受けている戦乱の歴史でもある。一方タイに侵攻したビルマはアユタヤ王朝を滅亡させ長い間タイを属国としたという歴史も合わせ持つ。ミャンマーの歴史は理解するにはあまりに複雑であり、以下に概略を記したが、興味のない人は読み飛ばしていただきたい。
ミャンマー南部は古くからモン族が住み都市国家を形成していたが、1044年に中国雲南省から進出してきたビルマ族がエヤワディー(イラワジ)河流域に進出し、パガン王朝を樹立した。この王朝はモンゴルの侵攻により14世紀初頭に滅びる。
その後、南部ビルマにはモン族が13世紀から16世紀にかけペグー王朝を、北部にはタイ系のシャン族が14世紀から16世紀にかけてピンヤ王朝とアヴァ王朝を開き、頻繁に南部ペグー王朝を攻撃した。1885年のイギリスとの戦争でビルマを統一していたコンバウン王朝が滅亡し、英国の植民地となった。1943年、日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国されるが、第二次大戦後再びイギリス領となる。1948年に英連邦を離脱してビルマ連邦が独立する。
主要農産物は米で、農地の六割は水田。ヤンゴン市内を抜けると延々と行けど尽きぬ水田が続くのである。ルビー、サファイア、翡翠などの宝石も多数産出され、ルビーに至っては世界の9割を産出する。天然ガスの産出も多い。 ミャンマーはかつては東南アジア有数の大国であり、識字率も高く独立後の成長を期待されたが、1962年から1988年までのネ・ウィン軍事政権による社会主義統制経済による鎖国的経済体制により、アジアの最貧国とまで言われる程経済が停滞した。
1990年の総選挙でアウンサウン・スーチー率いる国民民主連盟と民族政党は圧勝するが、軍事政権は選挙結果に基づく議会招集を行わず(つまり選挙結果を無視し)民主化勢力を弾圧した。1992年にはタン・シュェ軍事政権が生まれる。民主化勢力弾圧は益々厳しくなり、欧米諸国は経済制裁を実施しミャンマーの経済は益々成長を阻害される事になった。
2011年のティン・セインの大統領就任後、表面上軍政には終止符が打たれ、政治犯の大量恩赦や国民民主連盟の政治活動容認など次々と民主化対策を実現した為、欧米も経済制裁を逐次解除した。それにより安価な労働コストを求め工場進出を検討する企業が増えて来たが、ミャンマーへの投資は4L(Look,Listen,Learn,Leave)つまり見て・聞いて・学んで・去る、と揶揄される様に劣悪なインフラ状況により投資の伸び悩みが指摘されている。

「中国、日本のマンガ。ディズニーの思い出」
中国の若者や、子供の間で日本のマンガが大人気だ。色々なメディアから動画をインストールして楽しんでいるのを垣間見て、昔の日本と同じだとふと思った。1960年代つまり50年前だっただろうか、当時の日本ではディズニー映画が大盛況だった。ミッキーマウスやドナルドダック、白雪姫などだ。総天然色(当時はカラー映画をそう言った)によるファンタジーの世界に子供どころか大人も魅了され、いつか一度はロサンゼルスにあるディズニーランドに行ってみたいと誰もがあこがれたものだ。当時すでに鉄腕アトムもテレビで放映されていたが、しかしモノクロの世界だった。

「ロシア展示会メタルオブラボトカと、ブラジル機械展示会フェイマフェ」
ロシアモスクワでのメタルオブラボトカはロシアでは最大の機械展示会で、毎年開催される。隔年にしてくれれば有り難いのだがとは思うが仕方がない。ブラジルのフェイマフェもブラジル最大の機械展示会だが、こちらは隔年である。空いた年にはテックメイという工業関係の最大見本市があるがこれは弊社のターゲットでは無い。今年はブラジルのフェイマフェがロシアとほぼ同じ時期に開催される奇数の年だ。重なってしまうのならロシアをキャンセルするところだったが、ほぼくっついて開催で、何とか出来たので両方出展する羽目になってしまった。

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まずフランクフルトへ出てロシアを片付け、フランクフルトに戻りサンパウロに移動した。現在お陰様で受注は好調でそこまでしなくても、とは思われるが、私にとっては一種の脅迫感がある。創業ほぼ百年、父親から業務を移譲してもらって、早25年が経過した。いわゆる四半世紀でひとつの区切りである。今年は社業を継いでくれる娘も9月から正社員になる。父親とその弟の叔父は戦後壊滅した社業をゼロから再開し、発展させてくれたが、オイルショック以降の景気の減退期の受注減は見る影も無く、特に叔父の、注文が長期に渡って減少した際のおろおろした様は見る影も無かった。今思えば新規開発と特にマーケット開拓がまったくと言って良いほどされていなかった結果だったと思っている。今思えば日本での展示会出展もいつかしら無くなっていた。はじめて商談を開始してから販売に結びつくまでに20年以上もかかる事さえ稀では無い世界だ。いかに沢山の案件を抱え、それぞれに都度水やりをし、芽が出るのを待つ、、、これが装置産業の営業の要諦であると、これが25年を経過した私の社業経営のポリシーである。債権者会議で灰皿が顔面に飛んでくるのと、休日も無く四六時中世界を走り回るのと、どちらを選ぶのかと言えば間違い無く後者なのである。ついでと言うか最も大事な事かも知れないが、社長が長期不在でも会社がまともに運営されている、というシステムの構築が必須である。これは冒頭でも述べたが現在のインターネットの利便性を抜きにして語れない。世界同時にどこでも事務所、こうでないと話は始まらない。この構築には10年を要した。そして決裁はすべからく現金。見せ金である手形は決して発行してはいけない。ブラジルは日本と丁度12時間の時差、つまり午前午後が逆。ブラジル出張時は朝4時起きで日本の終業時の業務指示をし、夜は11時過ぎ、つまり日本の午前中への業務指示をメールでやりとりするのである。それでも顔面に灰皿が飛んでくるより増しと思って居る。

「典型的日本人・典型的インド人、インドタクシー、朝食ご飯」
インドでのビジネスもすでに15年以上を経過し、私も5割以上インド人と揶揄される程になり、褒められているのかどうか定かではないが、インド人達も私がインド通になった事を認めているのであろう。典型的インド人は理屈に合わなければ自己中心に理屈を合わせる方向がある。何でも自己中心にもって行こうとする。しかしながらロジカルで無いと理解した瞬間、論理的で無いと認めた瞬間、それは逆転する。ここの見極めが、インドでのビジネスの要諦であり、論理的に相手を負かせるのが勝負のしどころなのである。典型的日本人ではインドでも世界でも勝負が出来ない。一足下がった対応は世界では認められまい。インドではタクシーは交渉次第だ。ある時インド地方空港の到着時、タクシーを予約しておいたのだが、訪問先から迎えが出ていたのでそのタクシーのキャンセルの必要が生じた。日本だったら申し訳無いと思うがインドだったら別に構わない。すぐにドライバーに電話し、旅程を間違えて今別の空港に居る、ごめんね!これで終わらせた。
朝ご飯。インド米は美味しくは無いが海苔のふりかけをかけてご飯が食べたい。一般にホテルでは朝食にご飯は置いてなく、通例ではまず100%ご飯はありませんと断られる。しかしそこは強引にご飯が欲しいと強くでる。チェックインの際にご飯が出ると確約してくれた。これが一番利く。次は昨晩ここで夕食を摂った際に今朝のご飯を約束したと嘘を言う(もちろんそこで夕食は摂っていない!)。ここら辺で大抵ご飯が出てくるのである。それでもダメなら懇々と日本とインドの関係を説明する。お米がいかに両国で大事か、おいしいか、本日の朝食でご飯が出るか出ないかでこのホテルの評価がどう変わるかとか、主にマネージャークラスと思われる野郎に懇々と英語で説明するのである。ここまでやってもご飯が出なかった事はまず無い。100%出てくる。勝ったと嬉しく思う瞬間であり、まずいインド米も飛び抜けて美味しくなるのである。

「狭いながらも楽しい我が家」
榎本健一、通称エノケンと呼ばれた芸能人が戦後人気を博したのだが、浅草あたりの活劇から戦後間もないテレビドラマの出演までと、国民的芸能人であったのは間違いない。姓が同じだったので、小学校の頃、エノケンと呼ばれて往生した記憶がある。昭和30年代の頃の話だ。何のドラマだったか、何の歌謡ショーだったか、「狭いながらも楽しい我が家」という歌詞とメロディーが記憶にこびりついている。我が家もそうだったが、一つの部屋に卓袱台(ちゃぶだい)が置かれると、そこで家族全員が食事を突っつくダイニングになり、片付けられると押し入れから布団が出され、これまた家族全員のベッドルームになった。お客が来れば座布団が出てリビングである。当時は子供の数も多く、昼間の喧騒は騒々しく、まさしく「狭いながらも楽しい我が家」だった。昭和30年台、今から50年前の日本の姿である。

「インド喧騒」
12月、インド各地を超早朝出発(時に5時台の国内線飛行機に乗る事もあるし、翌朝到着の夕刻便国内線に乗ることもある)深夜着の連続でさすがに疲れ、土曜の午前の商談後、夕食の誘いを断りゆっくりした。夕食はホテルのレストランで、迷う事無くインド食レストランに入り、好物のビンディーマサラとガーリックナンを頼み、インドNashikのSuraの赤ワインを飲みながらゆっくりくつろいでいたのであるが、幼稚園から小学校の年齢の子供10数人の喧騒である。友人達か家族の夕食だろう。この喧騒は私の子供の頃はどこでも見られた光景である。50年ちょっと前、昭和30年の初期の頃だ。母方の親戚には従兄弟が多く(ちなみに現在私の子供達に従兄弟は居ない)、母の実家である東京郊外の農村地の祖父の家で子供達があつまる時には祖父の孫達、つまり私の従兄弟達で大喧騒だった。
インドは丁度その頃の日本と同じ。つまりあと50年経過すると少子化となり、高齢化社会に突入するはずだ。

「アグアスカリエンテス」
日産自動車の工場があるメキシコ中部の都市である。小さな田舎の空港から市内へ向かう道の右手にはすでに稼働中の大きな工場があるが、その手前の広大な土地に更に新しい工場を作っている最中である。
傘下の企業も多数進出しており、日本人学校もある。 スペイン語の水はアグアだが、アグアスカリエンテスは熱い水、つまり温泉を意味する。空港を出てまず感じるのは涼しい気温で、標高が1900メートル近くある事がその理由である。1575年に作られた都市で、1835年に隣のサカテカス州から分離し、アグアスカリエンテス州となった。人口約100万人。益々工業化されているが、その先導役は間違い無く日産自動車である。

「オートメカニカ展 メキシコシティー」
ドイツのメッセ・フランクフルトが企画運営する自動車部品関連の展示会で、メキシコの他、本家フランクフルト、上海やモスクワ、ニューデリーなど世界137_smmtカ国で開催されている展示会である。メキシコシティー版は今年の7月にセントロ・バナベックス会場で3日間開催された。出展企業数6百あまり、入場者数約2万人規模であった。
会場に入ってまず驚嘆するのは中国企業出展者の多さで、およそ半分強は中国企業であった。

中国の展示会かと錯覚するばかりであった。勿論中国政府や地方政府の大きなバックアップがあるからこそこれだけ出展したはずであるが、中国企業の海外展開熱が強烈なのには驚いた。メキシコのみならず、ブラジルもそうで、中南米への食指が強く感じられる。ブラジルへの最近の中国移民は、現在50万人に達しているそうで、国間の合意により、最終的には百万人まで移民させる計画であるらしい。

 

「3K」
3kとは、きつい、厳しい、汚いと認識していたが、臭いもあると誰かに指摘された。それはそうかも知れない。となると4Kだろう。

「ウコンとうんこ」
漢方薬で使われるウコンは鬱金と書くが、多くの人が読めないのでカタカナでウコンと表記される場合の方が多く、せっかちを絵に描いたと家内が揶揄する私にとっては往々にしてウンコと読み間違えてしまう。「ウンコのちから」「濃縮ウンコ」と、エエッ、一体何だと仰天させない様に、出来得れば鬱金と表記してもらいたいものなのである。

「日本、戦後発展と冨の分配」
相続税の課税範囲が広範囲になると言う。冨の分配がまた促進されるというのであろうか? 戦争に負けたお陰?で、日本は世界でも有数の冨の分配の進んだ社会主義国となった。累進課税は、所得が増えれば増える程税率が高くなり、三代経過すると財産のほとんどは相続税で持って行かれてしまうと言う。翻って、現在、中国やインドなどの諸国や、アジアの発展途上国では冨の分配がされず、金持ちと貧乏人の差が益々拡大し、多くの騒動を生んでいる。韓国でも新大統領の大きな課題だと聞いて居る。日本でも貧富の差が拡大している。とは言ってもそれらの国とはレベルが違い、暴動に発展する事もない。戦後のアメリカからの押しつけだった事は間違い無いが、これを幸運と言った方が良いのだろうか?

「就活自殺、ゆとり教育の結末」
就職が出来なかった事を悲観して自殺する例が多発しているらしい。どれだけ頑張っても、どれだけやらなくてもみんな一等賞、ゆとり教育の結末である事に間違いは無い。基本的に原則的に生きる事には競争が存在する。
厳しい諸外国との競争に負ければ企業は明日にでも倒産し、社員は路頭に迷うのである。厳しい社会現実からすると学校教育は生ぬるいというのが私の持論である。
一ドル百円の交換比率が継続し輸出競争が楽になった。ヨーロッパや台湾・韓国との機械の販売競争からして、一時より日本製品は二割も安くなった勘定である。海外工場へシフトしてしまったあまり影響がないという会社もあるだろうが、原材料の多くは日本から持ってきているから効果が全く無いという事も無いだろう。おしなべて日本の状況は悪くは無い。間もなく参議院選挙だが、大方の見立て通りの結末を迎えるはずだ。更なる活況を期待したい。 皆様の今年後半のご活躍を、ここメキシコシティーより祈念致します。

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